2004年(平成16年)11月1日には20年ぶりに新しいデザインの一万円券、五千円券、千円券が日本銀行券E券として発行された。
新渡戸稲造
1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日
農学者で、内村鑑三と並ぶクリスチャンの教育者、倫理哲学者。
国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。
東京大学(のち帝国大学、東京帝国大学)進学するがその研究レベルの低さに失望した。1884年、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後ハレ大学より農業経済学の博士号を得て、アメリカで結婚後に1891年に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。
1901年には、後藤新平らの招聘を受け、台湾総督府の技師に任命された。殖産課長となり児玉源太郎総督に甘蔗の栽培を薦め、台湾糖業の基礎を築くことに貢献した。
その後、1903年には京都帝国大学法学部教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年、東京帝国大学法学部教授、第一高等学校校長を兼任した。東京殖民貿易学校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれた。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。余談だが、当の米国は、モンロー主義により国際連盟には不参加となった。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。
1928年(昭和3年)札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年) 学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。
1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフで開かれた太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸ヴィクトリアで倒れ、永眠。
樋口一葉
1872年5月2日〈明治5年3月25日〉- 1896年〈明治29年〉11月23日
日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。
近代以降では最初の職業女流作家である。24年の生涯の中で、特に亡くなるまでの1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。
家が没落していくなかで、自らが士族の出であるという誇りを終生持ち続けたが、商売が失敗したのもそれゆえであるとみるむきもある。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えた。井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写している。『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いた。ほかに日記も文学的価値が高い。
一葉の肖像は2004年(平成16年)11月1日から新渡戸稲造に代わり、日本銀行券の五千円紙幣に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后(大日本帝国政府紙幣;壱円券は1881年発行開始;肖像は全くの創作)以来123年ぶりの採用である。なお、2000年(平成12年)に発行開始された二千円紙幣の裏面に紫式部の肖像画があるが、この肖像画は肖像の扱いではなく、弐千円券には肖像がないことになっている。よって写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。偽造防止に利用される髭や顔の皺がすくないため版を起こすのに手間取り、製造開始は野口英世の千円紙幣、福澤諭吉の一万円紙幣より遅れた。
肖像を女性にしたいがための安易な採用との非難があるが、聖徳太子の紙幣使用の終わり(1983年)ごろ、新紙幣の図柄を決める関係者の女性を採用してはという意見の中で、清少納言、紫式部、樋口一葉、与謝野晶子(出生順)の4人が候補に上がったが、当時はいずれも採用にはいたらなかったという逸話がある。